本当にささやかな僕の願い

 薪ストーブのパチパチと爆ぜる音だけが尚志の耳に届く。
 言いたいことは幾らでもあった筈なのに、いざ菜緒の顔を見ると、何から言えばいいのか分からなくなった。唇がからからに渇いているのは、きっとストーブだけが原因ではないのだろう。
 昨日、無理やりに菜緒の唇を奪ったときに得た潤いは、完全に干上がってしまった。
「……えっと、おじさんとおばさんは?」
「庭の雪囲い。来週には雪が降るらしいし」
「ああ、そっか。うん、そうだった……」
 にべもない。再び沈黙が部屋を支配した。ストーブの窓から漏れる赤い光が、菜緒の顔を無表情に染める。
 とにかく何かを言わなければ。そう思って口を開きかけた、その直前に菜緒がいきなり立ち上がった。
「あ、あの……」
 尚志の呟きには答えず、真っ直ぐに薪ストーブの前へと歩む。ストーブの窓を開き、火掻き棒でかき回し、新しい薪を入れる。
 そして、またゆっくりと元の位置に戻って、正座して尚志に向き直る。
「で、何?」
「え?」
 一瞬、それが菜緒の声だとは気がつかなかった。
 いつの間にか外は雲行きが怪しくなり、木枯らしがガタガタと窓を叩いている。
 菜緒の声は、その木枯らし以上に冷たく、無機質に尚志の耳朶を打った。
「何をしに、ここまで来たの?」
「あ、あの……ごめんなさい!」
 再度問われて、尚志は反射的に手を床についた。
「ごめんなさい……ごめん!」
「また、ごめん、だけ? さっきからそればっかり、いい加減聞き飽きた」
「ごめんなさい! 謝っても駄目って分かってるけど、すみませんでした!」
「おかしいよ、それ。謝っても済まないって言っているのに。さっきからずっと、尚志、謝ってばっかり」
「……ごめんなさい」
 それ以上、尚志には何も言うことが出来なかった。俯いて唇を噛み締める。
「自分勝手だよね、そういうの。謝ったら自分のやったことが許されるなんて考えて、ここに来たの? 私がどうして欲しいかなんて何も考えてないんだ。本当に自分勝手。最低」
「……」
「何をしに来たの? 何を言いに来たの? 何で、いきなりキスなんかしたの?」
「それは」
「見たんだよね」
 尚志を遮って、菜緒は尚志の目を見詰めたまま、決定的な事実を告げた。
「見たんだよね、千住くんが私に告白してきたとこ」
「――ッ!」
 図星だった。ストーブがじりじり肌を灼く。舌が顎に張り付いて、声が出せなくなった。視界が揺れて、菜緒が何重にも重なって見える。
「分からないと思った? だって、尚志があんなことする理由、あれしかないじゃない」
 ぐるぐる回る奈緒の虚像全てが大きくなってくる。気がついたら、奈緒が、鼻と鼻がくっつきそうなくらいにまで顔を寄せていた。尚志には、彼女がいつ立ち上がったのかさえ分からなかった。
 奈緒の声と共に、吐息が唇にかかる。
「最後まで聞かないで逃げたんでしょ。だけど家に帰ってから、私が千住くんにOK出したかもって不安になって。それで私が帰るのを待ち伏せして襲ったんだ」
「ち、ちが――」
「違わない」
 感情を込めずに菜緒が言い放つ。それだけで、尚志は何も言えなくなってしまう。
「臆病者」
 尚志は、自分を酷く惨めな存在に感じた。涙をぼろぼろ流して俯く。そんな尚志の頬に菜緒の手が伸びた。
「私の目を見なさい。……ねえ。そんなことをしないと、私が自分のものにならないと思ったの?」
 じっと尚志の目を見詰めて、菜緒が唇を舐めた。頬に朱がさす。今日初めて、菜緒の顔に小さく表情らしいものが浮かんだ。笑っている。
「馬鹿。本当に馬鹿ね。私には貴方だけなのに」
 菜緒の顔が近付く。互いの目を見詰めたままキスをした。
 尚志はただ菜緒を見詰めるだけで、動けない。自分の体を動かすということさえ思い付かなかった。
 すぐに口腔に舌が侵入してきた。金縛りで動けぬ尚志の代わりもするかのように、菜緒の舌は至る所を這った。
 やがて、菜緒の唇が名残惜しそうに離れる。唾液の橋までが、二つの唇の別れを惜しむようだった。
「涙を拭きなさい」
 その言葉でようやく金縛りが解けた。慌ててセーターの袖で顔を拭う。
「あら、ハンカチ持ってないの? しょうがない子」
 くすくすと笑いながら、菜緒がハンカチを取り出した。
「ほら、こっち向いて」
「い、いいよ。自分でできる」
「いいから、こっち向いて」
 菜緒の右手が尚志の頬に伸びた。軽くハンカチを押し当てるようにして涙を拭いていく。
「この頬も――」
 少しずつ、指の位置が上がっていく。
「瞳も――」
 右手が瞼を撫でる。ハンカチが床に落ちて、代わりに左手も頬に添えられた。
「耳も、鼻も、髪も、唇も。首も胸も肋もお臍も背中も、肩から指の一本一本まで、脚の付け根から爪先までも、尚志の全部が私のもの」
「な、菜緒姉……」
「尚志」
 菜緒の目が、すーっと細くなった。再び右手を頬に添えると、強く爪を押しつける。
「痛っ! な、菜緒姉?」
「名前で呼んで」
「あ、な、菜緒……」
「……うん、よろしい」
 菜緒はゆっくりと立ち上がると、小さく半歩下がった。片手を胸に当て、上気した頬をして口を開いた。
「私も同じ。体中、全部が尚志のだよ。他の誰にもあげない。ずっと、貴方が生まれたときから尚志だけ見てた。好きだよ」
「……」
「尚志は?」
「あ、ぼ、僕は」
「ただいまあ。さみー!」
「あら、誰かお客さん来てるの?」
 さっと菜緒がもう一歩下がる。そのまま振り返って、また火掻き棒を片手にストーブの窓を開いた。
 尚志は顔に涙や唾液が付いていないことを確認すると、なるべく自然に聞こえるように努力して、部屋に入る菜緒の両親を出迎えた。
「お、おかえりなさい、おじさん、おばさん」
「おお、尚志くんでねえが。久し振りだな、元気だったか?」
「あらあら、可愛いお客さん。もう幼稚園にも慣れた?」
「え、あ、はい」
 心臓が早鐘のように打たれる。横目で菜緒を伺うが、彼女は素知らぬ顔で、ストーブのやかんを急須に注いでいる。
「どうした、菜緒の方ばかり見て。ひょっとして、苛められてねえが?」
「え!? そ、そんなこと」
「ないよねー? 私、優しい保母さんだもん」
 朗らかに笑う菜緒。
「おめえには聞いてねえ」
「うるさいなあ。尚志くーん、私いい先生だよね?」
「う、うん。菜緒……先生、優しいよ」
「ふふふ、無理やり言わせられてない?」
「お母さん!」


という感じのお話が大好きなので誰か書いてください。