幸せの定義

昨日バイトから帰って晩御飯食べようとリビングに行ったら親父とお袋がテレビ見ていた。中居が赤いスーツ着てたから、たぶん金スマ。三輪明宏さんをゲストに迎え、いろんな芸能人の悩み相談をしていた(らしい)。あんまり興味もなく見るともなしに見ていたら、相談者の西川史子が面白い相談していたので、ちょっとそのことについて考えるともなく考えてみた。
ちなみにどうでもいいことを最初に言っておくと、僕は三輪さん好きですが、オーラの泉に出ている彼(彼女)は苦手です。そして西川女史は大嫌いです。中居君はどうとも思っていませんが、正直画面の中でも空気だったのでここでは忘れてくれていいです。


相談者の西川女史曰く、幸せの99.9%は金で買える、ということらしい。そのことについての街頭インタビューが冒頭流れたんだけど、当然街行く人々はその意見を壮絶に否定していた。傲慢だとか、高飛車だとか。
「三輪さん、こんな私でも幸せになれますか?」
この問いに対して三輪さんが言った台詞はこうだ。
「あなた、本心を語ってないのよ」
この時点ではまだあまりテレビに注意を払っていなかったので三輪さんの台詞について詳細を覚えていないのが申し訳ないが、大体要約すると「西川女史は本当は乙女のような大恋愛をしたくて、それを表に出すのが恥ずかしいから虚勢を張ってあんなことを言っている」「それは西川女子の望む本当の幸せではなく、実際には人並みの幸せを願っている」ということだった、気がする。*1


いや、ちょっと待てよ、と。それは違うぞ、とここで僕は思った。それは「三輪さんの考える幸せ」であって、「西川女史の考える幸せ」とは違うんじゃないか、と。
幸せの量なんて定量化できない。「三輪さんが誰かを愛することで得られる幸せ」と「西川女史がお金を稼ぐことで得られる幸せ」のどっちが幸せかなんて誰にも分からないし、分かる必要も無い。主体が変われば、同じ事柄に対し感じる幸せの量が違って当然だ。
それを三輪さんは「西川女史が幸せを感じるシチュエーション」を自分自身に置換して考えてしまったから話がおかしくなる。「愛こそ至上の幸せとする人間」が、「金こそ至上の幸せとする人間の理想とする状況」におかれて、それを至上の幸せとするわけがないのだ。はっきり言ってしまって、馬鹿じゃないだろうかこの人。


こういう「愛こそ全て」って意見は耳当たりもいいし分かりやすいで、結構大衆受けがいい。それを否定すると、あいつは人間味のないやつだな、などと人非人扱いされたりする。だけど、そんなことはない。経済活動だって立派な文化的行為だ。そこに幸せを見出す人間がいたって全くおかしくはない。


ここまで書いて寝て起きたらどうでもよくなったのでこのエントリ終了。
最後に、その他に思ったことを箇条書きして締める。

  • 三輪さんに「本心を語れ」と言われたとき、すかさず「確かにそう、私は愛がほしい」と衒い無く返してみせた西川女史がえらくオトナに見えた。自分の幸せを押し付けようとした三輪さんよりは好感が持てる。世渡り上手そうだね、この人。
  • 三輪さんの「人はお金では何も買えない。ただ借りているだけ。死んでしまったらまた全て他人のものになるのだから」という言葉に感動。なるほど、愛こそ全てと語るだけに、その哲学にはすばらしいものがある。それを他人に押し付けようとさえしなければいいのになぁ。

*1:このへん本当にうろ覚えなので、番組を見ていた人がいたら訂正お願いしたい。