ネットマナーという語が気持ち悪い

マナー
行儀。作法。礼儀。「運転の―」
エチケット
礼儀作法。「―に反する」
ネットマナー
ネチケット
ネチケット
(ネットワークとエチケットの合成語)コンピューターネットワークを利用する上でのエチケット。

大辞林 第三版

とりあえず辞書から引用してみたけど語義説明が短すぎて大して意味がなかった。


昔から、ネットマナーという語に対して違和感や気持ち悪さのようなものをずっと感じ続けていたのだけれども、最近になってようやく分かり始めてきたというか、自分の中で咀嚼ができそうな感じになってきたので、忘れる前に書いておく。


マナーというものを、僕は、「その場にいる人たちが守るべきことと認識している決まり事(不文律)」だと考えている。
スープは音を立てて飲んではいけない、というテーブルマナー。他社に電話をかけるときは相手の休憩時間をさける、というビジネスマナー。これらには確かに「相手が不快にならないようにする」という一面もあるのだけれども、それ以上に「やってはいけないことだ、と自分も相手も諒解している」から通用する、という側面もある。
幼稚園児がスープをずびずばすすっていたって、少なくともその子たちだけのあいだでは、それをとがめる人はいない。「午後から会議だから出来次第連絡をくれ」という相手に対して律儀に昼休みが終わるまで電話せずにいたら怒られるかもしれない(これはケースバイケースだからなんとも言えないけど)。
このようなことが起こるのは、幼稚園とか、締め切り間近だとか、そういう「場」の人間が「スープは静かに」「勤務時間外に連絡しない」といった事柄をマナーとして「認識」していないからだ。
不文律なのにみんながそれを守るのは、明文化されていない事でも「それを守らなければならない」と「みんなが」意識しているから、ということになる。


ところがネットマナーの場合、特に中でもそのサイトやサービス上でしか通用しないいわゆる「ローカルルール」の場合、それを言っている本人たち以外にはマナーとして認識されづらい事柄が結構ある。

  • ブラウザのお気に入りに登録するときはトップページ(もしくはインデックス)にして!
  • メール欄に sage (もしくは age, 無記入)
  • マイクロブログで私を follow するときと remove したときは reply で挨拶すること

確かにこれらの事柄を守る事で幸せになる人は多い。自分一人でこれらを意識している間は、別に何の問題もない。
だけど、それを「マナーだから」と言って他人に押し付けた瞬間に話が変わる。
マナーというのは最初に言った通り「それを守った方がよさそうだ、守らなければ、と認識されている決まり事」だ。初めて匿名掲示板に訪れた人が「メール欄に sage と書け」と言われたところで、それに何の意味があるのか分からなければ、何の意味も効果もなく延々とその人はメール欄に何も書かずに投稿し続けるかもしれない。
例えばそんなとき、こう言ってみると、彼はメール欄に sage と書いてくれるかもしれない。「この掲示板には、このスレッドだけでなく、他にたくさんのスレッドがあります。通常スレッドに投稿するとそのスレッドが掲示板の一番上に並び替えられるのですが、投稿時に sage とメール欄に書いておくと、スレッドの位置を変える事なく書き込む事ができます。スレッドが掲示板の一番上にあり続けると荒らしを呼ぶ可能性があるので、次からはメール欄に sage と書くようにしてください」。このように理由が分かれば、彼は sage 進行を「守るべき決まり事として認識」し、それをマナーとして学習するだろう。


マナーに理屈は必要がない。ヨーロッパでは「スープは音を立てるな」と言うし日本では「そばは音を立てて食べろ」と言うし中国では「ごちそうされたらゲップしろ」と言う。確かにそれぞれ理由のようなものがあってこういったマナーが生まれたのだけれども、だからといって、いちいち理由を意識してそのマナーを守っている人というのは少ない。ただその場の人間の共通認識とされてさえいれば、それはもうマナーになる。
逆に言うと、その決まり事が場全体で共有して認識されていない場合、それはマナーではなくなる。日本で食事中ないし食後にゲップをしたら大ひんしゅくだろう。


テーブルマナーのように長い年月をかけて作られたマナーではない場合、それをマナーとして他人に納得させるために「理屈」が必要になる。ビジネスマナーもそうだ。「相手の勤務時間外に連絡するな」というのは、「休憩時間中は仕事をしない(してはいけない)時間なのだから、そういう相手に仕事をすることを強制させるな」という理屈で説明される。それを聞いて納得しない人は少ない、多分。


もう一度言う。マナーに理屈は必要ない。「場」に「認識」させるための手段として理屈は有効だけど、必ずしもすべてのマナーが理屈をともなっているわけではない。


そこでネットマナーに話を戻すと、これらにも理屈のあるものないものがある。
理屈のあるものはいい。その理屈を説明する事で(それが理不尽なものでなければ)他の人間に「マナー」として周知する事が出来る。
問題は、理屈のないものだ。「私が不快だからやめろ」と言われてやめる人間ばかりだったら地球は平和で今日も僕はうちの娘たちと楽しく平和に暮らして毎日ハッピーだろうけれども、残念ながらそんな優しい人だけによってこの地球が回っているわけではない。
「相手がいやがる事はやめましょう」などというのはマナーの理屈の中でも最下位のもののひとつで、たいていみんな、そんなことより自分がより便利により楽しく生きることのほうが大事に決まっている。「いやがっているのでやめる」と認識しなければ、それはマナーではない。
「特に理由はないけれど、私が不快なのでやめてください」などというのは、マナーとして成立しないのだ。


じゃあインターネットって一部の理屈以外は無秩序な200Xワールド(*最近は20XX年に改変されているらしい。モヒカン世界が遠のいていく。)でいいのかと言ったら、そんなことは、もちろんない。
ネットマナーに代わる行動規範が必要になるけれども、前述の通り、その規範を「マナー」として全員に認知させるのは不可能だ。
なので僕はずっと、自分が不快にならないことだけを考えて行動している。


自分が不快にならないように行動するというのは、たとえば自分勝手にわがままに動くということではない。
それは例えば「ここでこういう行動をしたら相手はそれを不快に感じるな」ということを意識する。次に「不快に感じた相手は、僕を疎遠に思ったり、もしくは攻撃してくることがあるかもしれない」と想像する。そうすると「そういった不快な思いをしないために、この行動はとらない」という規範が自分の中で生まれる。
この「自分が不快にならないため」って結構強力なトリガーで、これを守るためだったらみんな割と真剣にやる。なので、「自分が不快にならないために」という思想をもう一歩押し進めて、「不快にならないためならどう行動するか」という考え方を啓蒙したら、みんな幸せになれるんじゃないかなー。
当然中には相手を不快にさせる事に心血を注ぐ僕にはとても真似できない素晴らしいボランティアの方々もいらっしゃるわけですけれども、それに対しても例えば「不快そうな人に近づかないようにする」とかで対処していけばいいんじゃないかなー。
まぁ、性善説で動いている理論なんで、どうしても穴があるけど、少なくとも自分一人はこれを守る事で今のところ幸せなのでこれからもそうするつもり。


何が言いたかったのか結局よく分からなくなってきたけど、みんな違ってみんないい、みたいな言葉でお茶を濁してとりあえずこのエントリの締めとさせていただきます。そんなことよりちょっと原宿の天使のすみか行ってきます。